僅か半年でチームは劇的に生まれ変わった
—2005年東工大OLT 友情が生んだ奇跡—



 東京工業大学オリエンテーリングクラブ。通称、東工大OLT。 活動の歴史こそ長いが決して強いクラブではなかった。 10年以上にもわたり、何人もの先人たちが クラブを強くするために知恵を絞り力を尽くしてきた。 だが一向に強くなる兆しが見えないまま2005年を迎える。 この年、2年生ながら名実ともにエースになった人物がいた。 彼こそが小山温史であった。 クラブを強くするために彼が取ったアプローチはそれまでとは根本的に異なるものであった。 彼は部員たちが楽しくトレーニングに取り組めるように誰よりも気を配った。 そして部員たちとの友情を大切にした。 小山様がエースになって半年余り。東工大OLTに奇跡が起きた。 競技志向の薄かったクラブに突如として空前のトレーニングブームが巻き起こったのである。 この流れに乗って春のインカレでは歴代最多の4人の決勝進出者を輩出し、 その後数年以上にわたって何人もの名選手たちを生み出し続ける原動力となる。 東工大OLT三十余年の歴史に誇る小山様の偉業を支えたのは同期の友人たちであった。 長年にわたる歴代の東工大OLTエースたちの悪戦苦闘と小山様が起こした奇跡、 それを支えた小山様の友人たちの活躍を振り返る。


小山様の偉業を支えた同期の友人たち。 4人の決勝進出者を出した2005年度のインカレにて。 撮影:東工大OLT。


※以下、小山様と同期の親友の方々を除き敬称略とします。
※著者が高く評価している人物と功績のみ名前入りで載せているつもりですが、 万一、悪口を書かれたと感じられた方がいましたら または までご連絡ください。 名前を伏せるか書き方を変える等の対応を取らせていただきます。


歴代エースたちの苦労 —強くならないクラブ 拒絶する部員たち—

<<この節の主な登場人物>>


 東工大OLTは1980年に発足したとされるが、 最初の10年あまりの活動については 小山様ファンクラブでは詳細を把握していない。 ファンクラブ会員が知る最初の東工大OLT強化のための取り組みは 太田宏樹(1991年入学)によってなされた。 同氏はクラブを強くするための方法論の確立に努め、 資料を残したり後輩の個人コーチを行ったりしている。 1994年度には東工大OLTとして初のインカレ団体戦入賞(5位)、 翌1995年度には瀬古口裕史(1993年入学)がインカレ個人戦(ショート競技)で 初の2位入賞を果たす。 さらに同時期(1995年1月)に初の東工大大会を開催するなど、 この時代に東工大OLTは一つのピークを迎える。

 この後、2004年度までおよそ10年にわたって横ばいの成績が続くことになる。 当時、強豪校と呼ばれるクラブが数校程度存在した。 それらのクラブでは毎年欠かさず複数のシード選手をインカレに送り込み、 インカレ団体戦(リレー)の優勝争いに絡めるのもそうした限られたクラブだけであった。 これらの強豪校と比較すれば当時の東工大OLTの競技レベルは 明らかに見劣りするものであった。 インカレ団体戦(リレー)では20前後の出場校の中で7位や8位といった順位が定位置になった。 個人戦(クラシック・ロング競技)では毎回4人前後の選手権クラス出場者を出すものの、 ほとんどの選手は半分よりも下の順位に終わり、 入賞争いに絡める選手は良くて1人だけであった。 予選決勝方式のショート・ミドル競技において 決勝に複数の選手が進出することもほとんど無かった。

 マイナースポーツであるオリエンテーリングにはスポーツ推薦もほとんど存在せず、 大学を選ぶ際にオリエンテーリングクラブの強弱を考慮に入れる人も皆無に近い。 したがってどの大学の選手も入部した時点での実力は横並びと考えて良い。 強豪校も含めてプロのコーチやトレーナーなどを付けているクラブは皆無であり、 強豪クラブとその他のクラブの間の実力差はアマチュアオリエンティアである部員一人一人が 自らの知識と創意工夫をもって行うトレーニングと後輩育成の中で 生じてくるものである。

 この時代、東工大OLTをより強くするために尽力した関係者がいなかったわけではない。 円井基史(1996年入学)は誰一人決勝に進めないインカレショートを見て悔しさに唇を噛み、 クラブ強化に乗り出した。 このときの熱い思いを後にOB会の会内誌で語っている。 氏は後に世界選手権日本代表チームの補欠にまでなる一方、後輩の育成にも力を注いだ。 同氏の取ったアプローチもノウハウの強化に重点を置いたものであった。 例えば 情報の共有化 —強くなるオリエンテーリング読本—という トレーニングなどのノウハウを集めたホームページも作成している。

 蔵田真彦(1999年入学)は高校時代からの経験者で、 大学時代にはジュニア世界選手権(JWOC)の日本代表になるとともに インカレでも何度も一桁順位に入る活躍をした。 同氏の同期や前後の代にはクラブを強くしたいと望む選手が比較的多く集まり、 知恵を出し合った。

 しかしながら、こうした取り組みは必ずしも多くの部員たちの間で 受け入れられていたわけではない。 例えばこんなことがあった。 あるオリエンテーリングの速い先輩がどのようにして速くなったのかについて、 やる気のある当時の1年生部員が身近にいる別の先輩に尋ねたところ、 「あの人は頭がおかしいから気にしなくていいよ」という返事が返ってきた。 このクラブではオリエンテーリングを速くなると頭がおかしいと言われるのか、 と彼は大きなショックを受ける。 このようなことは当時の東工大OLTでは日常茶飯事であった。 オリエンテーリングの速い人、頑張ろうとする人は自分たちとは別種の人間として遠ざける。 それが当時の主流になっていた。

 そんな中、事件が起きる。 「OBは今後、現役生やクラブへのいかなる関与や口出しもしてはならない。」 2002年秋、このような部会決議が採択され、OB会に通達されたのである。 歴代のOBたちが長年にわたり培ってきた知識とノウハウを現役生に伝える道は絶たれ、 多くは失意のうちに東工大OLTから(一部はオリエンテーリングそのものからすらも) 離れて行った。

 このような決議がなされたのは当時の大多数の現役生の間で 「OBの口出し迷惑だ」という声が噴出したことに端を発していた。 但し、現役生とOBの間の不仲というほど問題は単純ではない。 当時、東工大OLTはオリエンテーリングを熱心にやりたい人(競技派)と オリエンテーリングなどどうでも良い人(非競技派)に くっきりと二分されていた。 人数としては非競技派が多数を占めていたが、 オリエンテーリングクラブと名乗っている以上は 競技派の意向を少数意見としてあからさまに無視するわけには行かない。 このような状況下でOBがクラブに関与するとどういうことになるか。 OBになってもなおクラブに関与しようとするのは 卒業後もオリエンテーリングを趣味の1つとして続けている人がほとんどであった。 つまり競技派の側の人間がほとんどであった。 OBが自らの経験を伝えるという名目でクラブに口出しをすれば 結果的に競技派を後押しすることになる。 それを快く思わない非競技派の部員たちが 積もり積もった不満を爆発させたのがこの事件であった。

 翌年、競技派の多かった1999年入学組が卒業すると 東工大OLTの競技色はめっきりと薄れた。 その中にあって競技派としての姿勢を鮮明に打ち出し、 トレーニングやクラブ強化に熱心に取り組んだのが前田裕太(2001年入学)であった。 当時、クラブが強くなれないのは トレーニング方法や合宿の練習メニューの組み方などのノウハウが無いからだ、 というのが東工大OLTでの定説になっていた。 彼はその説を信じ、オリエンテーリングを速くなるためのノウハウを これでもかというほど学んだ。 その甲斐あって彼は4年生の秋のインカレ(ロング競技)で何と3位入賞を果たす。 彼は高校時代までスポーツ全般を大の苦手としてきた選手であり、 このような競技成績を出せたのはノウハウの賜にほかならない。 彼はそれを広めさえすればクラブは強くなるものと信じ、ノウハウの普及に取り組んだ。

 だがどうしたことだろう。 彼がいかに声を大にしてノウハウを広めようとしても 見向きもされないではないか。 これには彼も途方に暮れるしか無かった。 ノウハウは日頃のトレーニングや合宿の練習メニューなどに取り入れてもらえない限り 何の役にも立たないのである。 結局彼もクラブを強くする夢を成し遂げられないまま東工大OLTを去ることになる。 彼は自らの学生時代を振り返り、 クラブ強化に本腰を入れ始めるのが遅すぎたことが失敗の原因と分析。 次のエースには若いうちからチーム作りを委ねようと固く決意する。

 彼の次のエース。探すまでもなかった。 中学時代からの経験者にしてインターハイ2位1回、3位2回という信じ難い競技実績の持ち主。 日本全国に優に100人を超える友人知人を持ち、 日本代表選手やインカレシード選手、日本オリエンテーリング協会の大物、 その他日本のオリエンテーリングの中心部を担う 有力者という有力者のほぼ全てと知り合いとまで恐れられた人物。 リーダー向きの素質を生まれ持って備え、 3つ上の先輩をも一目で畏怖させるほどのオーラを放つ男。 小山温史(2004年入学)である。

 その小山氏は1年生の頃こそ浪人時代のブランクの影響から競技成績が低迷していたが、 2年生になって急速に力を回復。 2005年の秋を迎える頃には日本全国のインカレシード選手たちと 互角な勝負を出来るまでになりつつあった。 これを見た前田裕太は小山氏にチーム作りの全てを委ねるべき時が来たと判断。 強い期待を込めて小山氏に「小山様」の呼び名を付ける。 これが今日に続く「小山様」の呼び名の始まりである。

 それから間もなく、小山様の手によって驚くべきチーム作りが開始される。 それがこれから述べる2005年の奇跡である。


友情が生んだ奇跡のトレーニングブーム —そして4人が決勝へ—
 小山様は東工大OLTが強くなれない本当の理由を見抜いていた。 ノウハウの不足などではない。 競技派と非競技派の部員たちの間のぎくしゃくした人間関係。 頑張ろうとする部員を別種の人間として遠ざけようとする空気。 このような空気の中では部員たちは委縮し、頑張る気があっても頑張れない。 小山様が取り組んだのはこの空気を変えることであった。

 当時、非競技派の部員たちが何をやっていたかと言えばテレビゲームであった。 東工大にはゲーム好きが多い。 部室にもテレビゲームが置いてあって多くの部員たちが夢中になっていた。 競技派の部員たちにとってはこのテレビゲームこそ目の敵であった。 東工大生はただでさえ授業やレポートに追われて忙しい。 限られた時間をテレビゲームなどに充ててしまっては トレーニングをする時間を確保できないではないか。 それが競技派の部員たちの言い分であったが、 このような主張は割合として多数を占める非競技派の部員たちとの間の 溝を深める一因にもなってきた一面があった。

 さて小山温史である。 聡明な彼はテレビゲームを頭ごなしに否定して多くの部員を敵に回すような寓は犯さなかった。 小山様はテレビゲームに自ら加わる一方で、 テレビゲームで負けたら罰ゲームとして筋トレをするというルールを導入して見せたのである。 競技派の象徴であったトレーニングと、非競技派の象徴であったテレビゲームの融合。 これこそクラブの融和に向けた歴史的な1歩であった。

 小山様は部員たちをトレーニングに誘うときもノウハウを前面に出すような真似はせず、 部員たちを楽しませることに重点を置いた。 トレーニングの知識で頭がガチガチに固まった者は どうしても「何km走る」「何分走る」「どれくらいのペースで走る」 といった考え方をしてしまうものである。 これらの数字の背後には目標とする大会に向けた綿密なトレーニングプランがある。 競技派と呼ばれてきた少数派の部員たちの典型的な物の考え方である。 競技派と非競技派の間のぎくしゃくした関係が長く続いてきた東工大OLTでは こうした競技派的な物の考え方自体が多くの部員たちからの敬遠の対象になる。 小山様の誘い方はまるで違った。 「犬を20匹見つけるまで走ろう」。 彼はこう言って部員たちをトレーニングへと誘ったのである。 拒絶反応は起きず、トレーニングはじわじわと部員たちの間に浸透していく。

 小山様は部員たちとの間の友情を何よりも大切にした。 たとえばこの年の秋のインカレの折、 部員たちから応援してもらったことに対する感謝の気持ちを 繰り返し繰り返し、彼はブログの中で述べている。 応援ひとつでよくぞここまでと周囲が驚くほどに「みんなありがとう」を繰り返す小山温史。 その背後にはエースとしてクラブのために何かをやってやるという上から目線ではなく、 自分もまたみんなの支えを必要としているという気持ちを周囲に示すことによって 対等な立場で支え合う関係を築き上げようという彼の姿勢が見え隠れする。 小山様は何をやるときでも一人きりでやろうとはせず、 可能な限り周囲の人間を巻き込んだ。 この年の秋の小山様のブログには 「今日は誰々を誘って走りました」といった記事が頻繁に登場する。 走るにせよ何をやるにせよみんなでやってこそ、というのが小山様の信念であった。 友情を重視するこうした小山様の姿勢は次第に部員たちの支持を集め、 「オリエンテーリングの速い人=頭のおかしい人」という発想は 部員たちの気持ちの中からいつの間にか消えていったのである。

 そして遂に奇跡は起きた。 あれはこの年の冬が近づいた頃であっただろうか。 大多数の部員たちがあれほどトレーニングを毛嫌いしていた東工大OLTに 何と空前のトレーニングブームが巻き起こったのである。 トレーニングに加わったのはそれまでも比較的やる気のあった部員たちばかりではない。 「え、あの人もトレーニングしているの?」と思わず驚きの声を上げたくなるほど、 それまでおよそトレーニングとは無縁と思われていた部員たちが次々トレーニングに加わり、 大きなうねりとなっていく。

 このうねりの中で大きな役割を果たしたのが村上巧様(2004年入学)であった。 彼は1年生の頃からよく表彰台に上がっていたが、 この年に入って凄まじい勢いで力を伸ばし続け、何人もの先輩たちに次々追いつき追い越し、 小山様に追いつくのも時間の問題と思わせるほどの成長ぶりを見せていた。 村上巧様は当時2年生であった。 彼がオリエンテーリングを始めたのは大学入学後であり、 高校時代にも陸上競技など類似のスポーツをやっていたわけではない。 3年生や4年生にしてみれば、高校時代からの経験者の小山様には負けても 村上巧様にはそうやすやすと負けるわけには行かない、という気持ちが当然あったに違いない。 したがって村上巧様が速くなれば3年生や4年生も負けるまいと必死になる。 村上巧様は当時の4年生、3年生の主力選手たちと緊迫したライバル争いを繰り広げ、 部員たちのやる気の向上とトレーニングブームの一層の活性化に大きく貢献した。 小山様とともに奇跡のトレーニングブームを巻き起こした もう一人の立役者と呼ばれる所以である。

 そして迎えた3月のインカレ。 例年たかだか1人しか決勝に進めなかったミドル競技で 小山様・村上巧様を含む4人が決勝に進んだ。 当時としては歴代最多である。 その決勝でも最下位すれすれの成績に終わった選手は一人もいなかった。 単なるまぐれではなく十分な実力を持って4人が決勝に進んだ証拠であろう。 小山様と村上巧様が巻き起こした2005年東工大OLTの奇跡は 明確な数字となって歴史に刻まれたのである。


2005年度の春インカレ決勝を走った4人の選手たち。 撮影:東工大OLT。


後から後から名選手は続く

<<この節の主な登場人物>>


 後輩は先輩を見て育つ。自分をエースと認識している選手は直前のエースを、 2番手と認識している選手は直前の2番手を目標にする。 長くエースと2番手の間に大きな実力差が存在し続けた東工大OLTでは 自分を2番手の一人と認識している選手は数人いるが、 エースと認識している選手はいつの時代も一人だけであった。 そして東工大OLTには入賞争いに絡めるレベル、 あるいはそれに準ずるレベルの2番手がいなかった。 2番手はいつもインカレショート・ミドルでは予選落ち、 ロングでもせいぜい40位前後の順位に終わってきた。 したがって多くの若い選手たちが目標にするのもそのレベルであった。

 2005年東工大OLTの奇跡はこの状況を劇的に変えた。 2005年のインカレで活躍したのはエースの小山様だけではない。 大学入学後にオリエンテーリングを始めた村上巧様が 僅か2年生にしてインカレミドルの決勝に進出し、 その決勝でも21位に入った。入賞争いに絡めるレベルまであと1歩という好成績を叩き出した。 この事実こそが東工大OLTの多数の後輩たちに大きなインパクトを与えた。 自分たちにも出来る。そして自分たちもそのレベルを目指さなければいけない。 その意識が後輩たちの間に浸透し、壁を突き破る原動力となっていく。

 その村上巧様は3年生になる頃には既に準エース級の実力者であった。 東工大OLTの長い歴史の中で見れば村上巧様ほどの実力を持った選手は クラブ内で敬遠されるのが常であったが、 この村上巧様に限ってそのようなことは無かった。 時代が変わったことに加え、村上巧様の性格が大きく関係しているように思われる。 村上巧様も小山様同様、部員たちとの間の友情をどこまでも大切にした。 トレーニングはもとより競技と関係の無いクラブのイベントにまでも積極的に参加し、 いつでもどこでも部員たちを楽しませるための話題の提供に努めた。 OBになってからも勤務地の大阪からはるばる東京まで何度も足を伸ばしては クラブの行事に加わっている。 村上巧様の友情を大切にする姿勢は小山様をも上回るのではないかと思わせるほどで、 同氏を敬遠する人は一人もいない。 村上巧様がクラブ内で敬遠されなかったことにより、 長くクラブに存在し続けた競技派と非競技派の間の溝は跡形も無く埋まり切り、 今や両者の境界を識別することすら不可能なまでになっている。 東工大OLTのために村上巧様が果たした役割は計り知れない。

 村上一輝様(2004年入学)もまたこの流れに大きく貢献した一人である。 2005年のトレーニングブームを率先して主導し 村上巧様をはじめとする名選手たちとの間で伝説の名勝負の数々を繰り広げる一方、 逸材の揃った2004年入学組の中でも随一と評される運営力を存分に生かして クラブ運営に計り知れない貢献をされた。 比嘉友紀様(2004年入学)はトレーニングにも積極的に加わる一方、 類稀な人徳と教養をもって部長として善政を行い、 東工大OLTが誇る歴代最高の名部長として語り継がれる存在となっている。 小山様に村上巧様、村上一輝様、比嘉友紀様を加えた2004年入学の名物4人組の間は 強い絆で結ばれ、 その友情は小山様に対するオリエンティアの間での評価を一層際立たせている。

 2005年入学の選手の中に高校時代にインターハイ優勝の実績を持つ名選手がいた。 彼は2005年の奇跡の際は村上巧様など多数の部員たちとの間で 緊迫したライバル争いを繰り広げ、 2006年以降は小山様、村上巧様とともに東工大OLTの3強として活躍した。 部員たちのやる気の喚起に重点を置く小山様の路線の中にあって どうしても疎かになりがちなトレーニングや大会運営等のノウハウを あえて重視する立場を取り、 歴代のOBたちがかつて構築したものの忘れ去られていたノウハウをより一層発展させて クラブに普及することに力を尽くした。 このようなことをやっても昔の競技派部員たちのように 敬遠される時代ではなくなっていたのである。 部員たちから拒絶されることもなく 4年生のときはエースとして、大学院修士1年ではコーチとして 立派に役割を果たしている。

 古谷嵩(2006年入学)もまた高校時代に輝かしい実績を持った選手であった。 彼は小山様ゆずりのカリスマ性とオーラを兼ね備え、 同期のリーダー的存在として、東工大OLTの大黒柱として活躍する。 同期には久保山裕己、堀越裕之という名選手がいた。 長年にわたり体力面が弱いと言われ続けた東工大OLTにあって 2人は体力では全国に通用するものを持ち、 2008年のトータス10人リレー(10☆StarsCup)では当時無敵の強豪校であった東北大を相手に 互角の勝負を繰り広げて会場を大いに沸かせた。 彼ら2006年入学の名物3人組はいずれもクラブ運営能力が極めて高く、 3人の間の協力関係も抜群で、 3人が力を合わせれば並みの部員の10人にも20人にも勝ると言われた。

 彼ら逸材という逸材が一堂に会した記念すべき年が2008年であった。 運営学年(3年生)になった2006年入学の名物3人組が盤石の協力関係のもと、 鮮やかな手際でクラブ運営を進める。 4年生になった2005年入学の名選手がトレーニングなどのノウハウを活かしつつ エースとしてチームを引っ張る。 ヘッドコーチとなった小山様が 一緒にコーチになった同期の3人の親友たちとの間の阿吽の呼吸のもと、 これ以上望みようもないほど見事に選手育成に取り組む。 考えうる限り最高の逸材が揃ったこの年の東工大OLTにあって 彼らに適材適所かつ過不足なく役目を与え、持てる力を最大限に引き出したのが 名部長・御崎智之(2006年入学)であった。

 その効果は常人の想像が及ぶべくもないほどのものであった。 スポーツを趣味とする人ならおよそ誰しもが一度は夢見たであろう 理想的なクラブがここに誕生する。 クラブの隅々までどこを見渡しても精鋭という精鋭が名を連ね、 部員たちは互いに極めて仲も良く、オリエンテーリングにはいつも真剣に取り組み、 部員が集まれば切磋琢磨しやる気と能力を高め合い、 クラブの仕事ではそれぞれの持ち味を存分に生かしながら互いに連携協力して クラブのより一層の発展のために力を尽くす。 部員の誰一人、行動のどれ一つもがクラブに欠かせないものとなり、 他の部員たちやクラブ全体にプラスの効果をもたらし合うさまは芸術作品のごときであった。 クラブのあるべき姿をこれ以上望みようもないほど見事に実現し、 完全無欠の理想的なクラブとして日本中を魅了した。

 この年の東工大OLTの練習会や合宿には かつてクラブを追われた昔のOBたちも許されてスタッフとして参加したが、 みな一様にこれが同じクラブかと驚きに目を見張った。 この年の東工大OLTの合宿や練習会に一度でも参加した人は みなクラブをたまらなく気に入ってしまい、 自然にリピーターとなって何度もクラブの行事にスタッフとして顔を出すようになる。 そうしたOBの一人がトレーニング関係の資料を揃え 「ご自由にお取り下さい」と書いて練習会のベースに置いたところ 見る見る在庫が減っていく。 何度も全日本チャンピオンや日本代表になっている外部の方を 合宿にお招きした時など誰に言われずともみな自ら進んで教えを請うた。 みなオリエンテーリングを速くなろうと真剣そのものであった。 それだけにこの年の合宿や練習会は 東工大OLTのものとは思えないほど充実したものとなった。

 この年の主な成果としてはまず、 秋のインカレのFクラス(オリエンテーリング1年目の学生クラス)において 東工大OLTの選手が男女ともに優勝したことが挙げられる。 クラブ史上初めて3人の女子部員が揃い、 春のインカレ団体戦(リレー)では初めて女子選手権クラスへの出場を果たす。 そのリレーも最終順位こそ9位に終わったものの、 中間速報で一時トップに立つなどして会場を大いに盛り上げた。 男子のリレーでは6年ぶり3度目の6位入賞を勝ち取った。

 そしてこの年の東工大OLTの成果は何と言っても 若い選手の中から何人もの新たな名選手が育ったことであろう。 2年生(2007年入学)からは田村蓉子(後にインカレロング3位、インカレミドル6位入賞)、 新城大樹(後にインカレスプリント5位入賞、全日本エリート)、 高野圭司(この年のリレー代表メンバー)、小早川茉由(同)といった名選手が誕生。 この年の1年生(2008年入学)に至っては大嶋拓実(後にインカレミドル3位入賞)はじめ 楠恵輔、保川一歩、久保田翔、宮崎大地、井上舞といった名選手が誕生し、 この1学年だけで後にインカレロングエリート6人、 ミドル決勝進出者4人を輩出することになる。 彼らが主力となった2010年度には 2005年度の記録を塗り替える6人がインカレミドルの決勝に進出、 続く2011年度にも4人が決勝に進出するとともに 4度目のインカレ団体戦入賞を果たしている。

 小山様と村上巧様の友情が生んだ2005年東工大OLTの奇跡はこうして後の世代に引き継がれ、 数年が経過した今もなお名選手を生み出す原動力となっている。


最高の逸材が一堂に会した2008年度の東工大OLTインカレ直前合宿で 名だたる名選手たちに囲まれ陣頭指揮を執るヘッドコーチ・小山様。 撮影:村上一輝様(以下8枚同様)。

東工大史上初めて揃った3人の女子部員たちと、 3人を囲む1年生、2年生の部員たち。 この年の東工大OLTの活性化に計り知れない貢献をされた。

この年の運営を見事に進めた3年生の名選手たち。村上巧様の姿も。

この年のエース、スタッフとして参加したOBなど。


同合宿のナイトミーティングでインカレに向けた心構えを語る小山様。

小山様の隣に立って翌日の予定を発表する親友・村上巧様。

真剣に話に聞き入る部員たち。

グループミーティングの様子。 この年の合宿には外部の方も多く参加し、東工大の精鋭たちと練習をともにした。

この年のインカレロングではFクラス(オリエンテーリング1年目の学生のクラス)で 男女ともに東工大OLTの選手が優勝した。 撮影:東工大OLT。


インカレ団体戦女子選手権クラス(WE)1走の走り。 撮影:O-News宮城島氏(以下5枚同様)。

同男子選手権クラス(ME)1走の走り。

同WE2走から3走(アンカー)へのチェンジオーバー。 31回目のインカレにして東工大OLTのチームとして初めて 女子部員3人がたすきを繋いだ。

同ME2走から3走(アンカー)へのチェンジオーバー。 襷を受けたのはこの年のクラブ運営でも中心的役割を果たした 歴代東工大OLTきっての名選手。 部員たちの熱い声援を一身に受け、 あとは俺に任せろとばかりに頼もしく出走する。

そして6年ぶりの入賞を勝ち取る。 表彰台でマイクを握るのは役目を立派に果たしたこの年のチームリーダー。 「小山さんと村上巧さんのために頑張ってきました」と語った。

2008年の東工大OLTで育った名選手の3年後。 4年生になった彼はエースとしてインカレ団体戦3走を走り クラブを4度目の入賞に導いた。 名選手が新たな名選手を生む連鎖は続く。撮影:上林弘敏氏。



ここでは小山様が東工大OLTを強くした様子を伝記風に書きましたが、 より客観的な数字で見たいという方は 数字で見るチーム作りの天才・小山温史の奇跡 も合わせてご覧ください。


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