数字で見るチーム作りの天才・小山温史の軌跡


 小山様の一番の得意分野は何と言ってもチーム作り。 小山様の行くところ元気にならなかったチームは無いとさえ言われるほど 小山様は行く先々でチームを強く元気にしてきました。 ここでは小山様が中学・高校時代を過ごされた麻布学園オリエンテーリング部(麻布学園OLK)、 大学時代を過ごされた東京工業大学オリエンテーリングクラブ(東工大OLT)、 そして小山様の所属クラブである オリエンテーリングクラブ・トータスの競技成績の推移をもとに 小山様がチームを強くしてきた様子を見ていきます。


麻布の頼もしき大先輩として

 中学・高校生日本一を競う大会としてインターハイ (正式名称:全日本高等学校・中学校オリエンテーリング選手権大会) が年1回開催されています。 個人戦と団体戦があり、個人戦では上位6人が表彰対象となります。

 図1にインターハイ個人戦での麻布学園の選手の入賞者数の推移を示します。 団体戦で優勝した年度を▲で重ねて示しています。

 昔の大会では大会公式ホームページなどから記録を入手できないものもあり、 小山様がご自身のブログの中で行われている インターハイまとめプロジェクト や過去のオリエンテーリング大会の成績がまとめられている オリエンテーリング.jp のデータをもとに集計・プロットしました。 但し、入賞者全員の氏名・所属のデータが完全に揃っている 1997年度以降のみ集計しました。



図1. 麻布学園OLKの選手のインターハイ個人戦入賞者数の推移。 (a)大会別、(b)選手の入学年度別。 入学年度別の統計では同一人物については最高成績でカウントしています。 例えば小山様は1年:2位、2年:3位、3年:3位という成績を出していますので 最高成績の2位でカウントしています。


 大会別の統計(図1a)から、 小山様の現役時代には毎年欠かさず2人以上の入賞を成し遂げてきたことが分かります。 小山様が高校を卒業してしまうとクラブは瞬く間に力を落とし、 2003年度以降しばらく低調な成績が続きます。 小山様がチームにとっていかに欠かせない存在であったか、 2002年度以前と2003年度以降の落差を見るとよく分かります。

 麻布学園の後輩たちのなかで小山様の教え子と呼べるのが 尾崎弘和選手と野本圭介選手の2人です。 小山様が地域クラブ「トータス」の事実上のチームリーダーとなった2006年頃から 2人はトータスにも入会して小山様の教えを受けながら活動しました。 2人が中学・高校の6年間を通して最も活躍できると考えられる高校2年生(※) になったのが2008年度でした。 この年のインターハイで2人は見事1位と2位を取ります。 麻布学園から2人の入賞者を出したのは2002年度以来で、 特に1位と2位をともに麻布の選手が占めたのは1996年度以来のことです。 そしてこの年の団体戦でも2人の活躍により10年ぶりの優勝を果たしました。 小山様の後輩育成が競技成績となって結実したのです。

 図1bは選手の高校入学年度別の統計です。 図1bを見ると有力選手はごく少数の代に集中していることが分かります。 まず目につくのが2000年入学組で、最多の3人の入賞者を出しています。 この3人のうちの一人は小山様で、残る二人は小山様の親友たちです。 次に目立つのが2007年入学組で、 入賞者数は2人ですが1位と2位を占めています。 この代で活躍したのが小山様の教え子の尾崎選手と野本選手です。 麻布学園の歴史の中でも小山様と同期の友人たちと教え子たちが 最も輝かしい成績を出してきたことが分かります。

※中学生や高校生は年を重ねるごとに体力が伸び オリエンテーリングの技術も上達しますので インターハイでは上の学年の選手ほど有利です。 但し、高校3年生では受験に備えなければならないためあまりオリエンテーリングに打ち込めず 力が落ちてしまいます。 したがってインターハイで最も活躍できるのは高校2年生と考えられます。 実際、1997年から2009年までのインターハイにおける高校2年生の入賞者は 麻布以外も含めて全部で41人おり、入賞全体(78人)の半数を超えています。


東工大のヒーローとして

インカレショート・ミドル競技
 学生日本一を競う大会としてインカレ (正式名称:日本学生オリエンテーリング選手権大会)があり、 個人戦ショート・ミドル競技、個人戦クラシック・ロング競技、団体戦が それぞれ年1回ずつ行われています。 長い歴史の中で「ショート」から「ミドル」へ、「クラシック」から「ロング」へと 名前が変わっていますが、中身に大きな違いはありません。 したがってここでは「ショート・ミドル競技」「クラシック・ロング競技」と まとめて呼ぶことにします。

 ショート・ミドル競技は予選決勝方式で行われ、 決勝(A-final)の出場枠は年によって若干の変動があるものの おおよそ男子40名女子24名程度です。

 図2は東工大OLTの選手のインカレショート・ミドル競技における A-final進出者数の推移を示しています。 1993年度が第1回大会です。 昔のインカレについては大会公式ホームページから記録を入手できないものもあり、 東工大OLT公式ホームページの記録を参照させていただきました。



図2. 東工大OLTからのインカレショート・ミドルA-final進出者数の推移。 (a)大会開催年度別、(b)選手の入学年度別。 小山様が2004年入学です。 入学年度別の統計では同一人物については最高成績でカウントしています。 2011年以降に入学した選手については 今後のインカレで記録を更新する可能性があります。


 まず大会開催年度別の統計(図2a)の特徴を見てみましょう。 2004年度のインカレまでは平均的に見て例年1人程度しかA-finalに 進出することが出来ませんでした。 それが小山様がエースとなった2005年度にいきなり4人のA-final進出者を出します。 当時としては歴代最多です。 続く2008年度には小山様がヘッドコーチとなって若い選手を多数育て、 彼らが主力メンバーとなった翌年以降に 毎年欠かさず複数のA-final進出者を出し続けています。

 選手の入学年度別の統計(図2b)を見ると、 2002年以前に入学した選手は2学年に1人程度しかA-finalに進出できなかったのに対し、 2003〜2009年に入学した選手の中からは 全ての学年で漏れなくA-final進出者を出し続けていることが分かります。 小山様が2004年入学ですから2003〜2005年入学組は小山様と最も長く過ごした世代、 そして2005〜2008年入学組は小山様の教え子にあたる世代ということになります。 2008年入学の選手が4人もA-finalに進出していますが、 これは小山様がヘッドコーチをされた2008年度に1年生として東工大OLTで過ごして オリエンテーリングの基礎を身に着けたことが関係しているものと思われます。


インカレクラシック・ロング競技
 クラシック・ロング競技は地区別の選考会を通過した選手が選手権クラスに出場できます。 本番は予選決勝方式ではなく一発勝負です。 出場枠は全国合計で2001年度までは男子90人女子60人でしたが、 2002年度からは男子60人女子40人に削減されました。 それでもショート・ミドル競技の決勝(A-final)よりは依然として枠が多く、 選手権クラスに出場すること自体は比較的容易であると考えられます。

 図3はインカレクラシック・ロング競技における 東工大OLTからの選手権クラス出場者数の推移です。 東工大OLTの選手の競技成績を完全な形で入手できた 1999年度以降のインカレのみ集計しました。



図3. 東工大OLTからのインカレクラシック・ロング選手権クラス出場者の推移。 (a)大会開催年度別、(b)入学年度別。 小山様が2004年入学です。 入学年度別の統計では同一人物については最高成績でカウントしています。 2011年以降に入学した選手については 今後のインカレで記録を更新する可能性があります。


 まず大会開催年度別の統計(図3a)を見ますと、 枠が多いこともあって出場者の総数で見れば横ばいのように見えます。 しかし、男子30位以内,女子20位以内に入った選手(赤)だけに注目しますと 小山様の登場後に激増しています。 この様子を分かりやすく示したのが4年ごとの集計(図3aの右のグラフ)です。 男子30位以内,女子20位以内に入った選手(赤)の数は 小山様登場前の4年間(2000〜2003年度)では延べ3回だけでしたが、 小山様が現役生として活躍された4年間(2004〜2007年度)では延べ9回に激増し、 小山様の教え子たちが主力世代として活躍した4年間(2008〜2011年度)でも 延べ8回と引き続き高い水準の活躍を見せています。

 選手の入学年度別の統計(図3b)で見ると 選手権クラス出場者の総数についても 小山様のチーム作りの成果が読み取れます。 まず、1999年入学組にピークを持った1996〜2000年入学の範囲にかけての山が1つありますが、 これは円井基史氏(1996年入学)のチーム作りの成果を反映したものと考えられます。 その後一度成績が低調になりますが、 小山様が登場したことで2004年入学組以降は力を取り戻し、 ショート・ミドルと同様に2008年入学組が 突出した選手権クラス出場者数を記録しています。

 図3bを見ると、男子30位以内、女子20位以内に入った選手(赤)は 2002年入学組以前は平均的に見て2学年に1人程度の割合だったのに対し、 2003〜2009年入学組では全ての学年にこの順位に入った選手がいることが分かります。 特に2004年入学組と2008年入学組からは複数の選手がこの順位を取っています。 図3bには6学年ごとの統計も示しました。 「小山様と最も長く過ごした世代」と「小山様の教え子世代」を合わせた 2003〜2008年入学の6学年では全部で8人の選手が男子30位以内,女子20位以内に入っており、 前の6学年(1997〜2002年入学)の倍以上に増加したことが分かります。


インカレ団体戦
 東工大OLTにとってインカレ団体戦で入賞することは容易なことではありません。 過去35回のインカレで入賞を果たしたのは 1994,2002,2008,2011, 2013年度のたった5回だけです。 しかしチーム作りの天才と呼ばれる小山様にとっては 東工大OLTを入賞に導くのはたやすいことのようで、 2度のコーチ(2008,2011年度)で2度ともチームを入賞に導かれました。


トータスの大黒柱として

 小山様はかなり早い時期から日本を代表する地域クラブである 「オリエンテーリングクラブ・トータス」で活動していますが、 いかに小山様と言えども中学生や高校生のうちから クラブのリーダー的存在だったはずはありません。 小山様がトータスの若きチームリーダーとして頭角を現すようになったのは トータスの主催大会を実行委員長として取り仕切った 2006年頃からだったように思います。

 ここでは小山様がトータスを強くした様子を クラブカップ7人リレー(CC7)の成績で見てみます。 CC7は正式な選手権大会ではありませんが、 地域クラブ日本一を競う大会としてオリエンティアの間で広く認知され、 多くの地域クラブが1年間の最大の目標に掲げている大会です。 年1回開催されており、初回大会は1993年です。 CC7では若年者や高齢者、女性などを一定人数チームに含める必要があります。 チームがこの条件を満たしていない場合、出走は出来ますが順位はつきません。 条件を満たしたチームは「正規チーム」、 満たしていないチームは「オープンチーム」と呼ばれます。

 図4はCC7でのトータスの成績の推移をプロットしたものです。 何もプロットしていない年はトータスがCC7に出場していないということです。 また、トータスから複数チームがCC7に出場した年については 全チームともプロットしました。 比較のため小山様がトータスのチームリーダーとして活躍してきた期間を 線で示しています。

 図4では小山様がチームリーダーとなった頃から 点の密度が急激に増加しています。 これはトータスのCC7参加頻度や参加チーム数が急激に増加したことを表しており、 小山様のもとでトータスが元気で活発なクラブになったことが これだけでもよく分かります。 そして競技成績も右肩上がりになっています。 2005年には21位だったのが2008年には11位でヤングチャンピオンに輝き、 続く2009年には6位入賞、2012年には5位入賞、 そして2013年に遂に初優勝を果たしました。


図4. クラブカップ7人リレー(CC7)でのトータスの成績の推移。 オープンチームについては例えば10位の正規チームと11位の正規チームの間であれば 10.5位としてプロットしました。 図の縦軸の範囲から外れた点は出走はしたが完走できなかったことを表します。


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